大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の
8つの島から成り立つ伊豆諸島は島ごとに特色があり何度訪れても新たな感動があります。


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大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の8つの島から成り立つ伊豆諸島は島ごとに特色があり何度訪れても新たな感動があります。
伊豆諸島の歴史
北部に関しては縄文時代から人々が暮らしていた痕跡があり、各島からは縄文遺跡が発見されている。さらに三宅島では弥生遺跡が発見されており、この時代には定住が始まっていたことが窺われる。弥生時代特有の稲作文化については、遺跡が建設された後、栄えることになる。

公家や武家、僧侶などの高貴な身分の者が流罪によって流されることが多かったため、都(みやこ)の文化や風俗が持ち込まれることも多かった。

江戸時代には、幕府の直轄地となる。物産の売買などは江戸に置いた島会所を通じて行われていたため、江戸との繋がりは意外に強かった。

古くは伊豆五島または伊豆八島などと呼ばれていたこともあるようだが、江戸時代の終わりまでには伊豆七島と呼ぶことが定着していた。その後はそれが一般化し、伊豆諸島全体を指す言葉としてもしばしば使われているが、現在人が定住している島だけで9島あるため、どの島が含まれてどの島が含まれないのかといったことで差別を生むことから、使わないようにした方がいいという議論がある。ちなみに、一般的には式根島(歴史的経緯から新島村の一地区と見なすため)と青ヶ島を除く7島で「伊豆七島」とする事が多い。

略年表
674年-麻績王が大島に流罪。
680年-駿河国から分けるかたちで伊豆国が設けられる。
724年(神亀元年)-伊豆国を遠流の地として定める。
1156年(保元元年)-源為朝が大島に流罪。
関東管領(山内上杉家)の支配下に入る
相模三浦氏の支配下に入る
後北条氏の支配下に入る
江戸幕府の直轄地となる
1606年(慶長11年)-宇喜多秀家が八丈島に流罪。公式には最初の八丈流人。
1714年(正徳4年)-江島生島事件により歌舞伎役者の生島新五郎が三宅島に(1742年(寛保2年)に赦免)、侍医の奥山交竹院が御蔵島に流罪。
1729年(享保14年)-奥山交竹院らの尽力により三宅島の属島扱いされてきた御蔵島が「独立」をはたす。英一蝶が三宅島に流罪。
1780年(安永9年)〜1785年(天明5年)-青ヶ島で噴火。特に天明5年4月〜5月の噴火では202名が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった132名は全員死亡したと推定される。これ以後、佐々木次郎太夫ら島民が帰還を果たす1835年(天保6年)までの50年間、青ヶ島は無人島となる。
1827年(文政10年)-徳川譜代の旗本近藤重蔵守重の長男(近藤富蔵)が、父の地所争いの相手一家7人を殺傷した罪で八丈島に流罪。これが最後の流人となった。
1868年(慶応4年)6月29日(旧暦)-韮山県に属す。
韮山県の成立を「明治元年」としている本が見受けられるが、韮山県の成立は旧暦9月8日の改元前なので慶応4年と記載するのが適当。この点については慶応および明治を参照のこと
1868年(明治2年)-宇喜多氏(宇喜多秀家の子孫)が赦免される。「浮田」及び「喜多」の姓を名乗る末裔の一部が秀家らの墓守として現在も残留。
1871年(明治4年)7月14日(旧暦)-廃藩置県により韮山県が再編され足柄県に属すことになる。
1876年(明治9年)4月足柄県が廃止され静岡県に編入。
1878年(明治11年)1月11日-東京府に移管される(太政官布告)。
1878年(明治11年)2月6日-静岡県から東京府へ事務引継ぎ。
1880年(明治13年)-近藤富蔵が赦免される。その後八丈島にある一観音堂の堂守として1882年に再渡島し、1887年に83歳で没。
1888年(明治21年)-玉置半右衛門が東京府から鳥島の無料拝借の許可を得、羽毛採取の目的でアホウドリの乱獲を開始する。
1902年(明治35年)-鳥島で大噴火、玉置の人足ら当時の住民125名全員が死亡。玉置自身は家族とともに1893年に東京に移住していたため無事。
1943年(昭和18年)7月1日-東京都制施行。(東京府廃止)
1946年(昭和21年)1月29日-連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により日本の施政権が停止される。
1946年(昭和21年)3月22日-GHQにより停止されていた伊豆諸島に対する日本の施政権停止が解除される。
1951年(昭和26年)-絶滅したと思われていたアホウドリが鳥島で再発見される。
1952年(昭和26年)4月9日-もく星号墜落事故、乗客・乗員37名全員死亡。
1963年(昭和38年)8月17日-藤田航空(同年11月に全日空に吸収合併)のデハビランド・ヘロン1B、八丈島発羽田行きが離陸直後に八丈富士に激突、19名死亡(藤田航空機八丈富士墜落事故)。
1965年(昭和40年)-群発地震により、鳥島気象観測所が閉鎖。
1969年(昭和44年)3月-ライフラインをはじめとする生活条件の厳しさを理由とした八丈小島から八丈島への島民の移住が開始され、同年6月に完了。「全国初の全島民完全移住」として注目された。これ以降、八丈小島は無人島となる。その後、野ヤギの大繁殖が環境問題になる(経緯については八丈小島の項を参照のこと)。
1983年(昭和58年)-三宅島・雄山の噴火により阿古地区が溶岩流に飲み込まれる。
1986年(昭和61年)11月15日-大島・三原山が噴火。この後11月21日に全島避難(約1ヶ月)。
1993年(平成5年)-東京都島しょ振興公社の協力のもと大島、利島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島を結ぶヘリコミューター路線「東京愛らんどシャトル」の運航を開始。 2000年(平成12年)9月2日-7月より続いていた三宅島・雄山の噴火により全島避難。
2001年(平成13年)8月29日-八丈町が八丈小島における野ヤギの捕獲を開始。
2003年(平成15年)10月7日-午前8時27分頃、八丈島空港へ着陸姿勢に入った羽田発のエアーニッポン(ANK)821便のボーイング737(乗客乗員62名)が、八丈島東方海上にて海上自衛隊厚木基地所属のP-3C哨戒機(乗員9名)とのニアミス(最接近時の距離が僅か30m)。10月11日にANKが国土交通省に報告。
2005年(平成17年)2月1日-15時平成12年以来、4年5ヶ月間続いていた三宅島の避難指示が解除される。
2008年(平成20年)4月26日-噴火以来7年8ヶ月間、避難指示解除以来3年3ヶ月間途絶えていた羽田〜三宅島間の航空路が再開される。

大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の8つの島から成り立つ伊豆諸島は島ごとに特色があり何度訪れても新たな感動があります。